まつもと市民芸術館行ってきました。

                         2004   設計 伊東豊雄
                      photo by mirutake  2004.5.4


松本駅から大通りを歩いてゆきました。
グレイの丸い壁面が見えて、あ!これだなという感じです。
素っ気ない正面だ。
どうしてこんなに細い柱に出来るのか!この柱の細さは見せ場になってる。







正面から見ていると、右手の壁面が大きくたゆたっているのが解る。なかなか今までに無い良い感じの場になっていることが感じられました。建物全体が透明なガラスでなく、壁であることは全く気になりませんでした。たゆたう曲面に納得させられている感じです。何か童話に出てくるような雰囲気でもあります。この時点ではまだガラスブロックに気づいていませんでした。





子供たちが水で遊んでいる。その水を建物の周り全周に配しているようだ。

正面エントランス周り、風除室周りは実に素っ気ないガラスの使い方。内部に入って、幅の広い階段で広がりを感じ始める。
このときにアプローチの暗い壁面に、シャボン玉のような明るいガラスブロックに出会う。



















大階段を上がってゆくと、どんどん暗くなってきて、ガラスブロックが点々と目立ってくる。なるほど外部の明かるさで光るガラスブロックという演出か。暗く落ち着いた中に、華やかな感じが演出されていると思う。








食堂


舞台のぞき窓が見える


舞台後ろから客席を見る









椅子が配された部分は壁を止めて大ガラスとして、外の景色が見える。
絨毯は椅子廻りが薄い色になっている。
通路が大きくゆったりと回り込んでゆく。


大ホールにはいると、馬蹄形の赤い壁が、大きなカーブとともに細かい曲面を作って揺れており、複雑な光の縞を生んで豪華な感覚を呼んでいる。
赤い光が滝のように流れ出した姿は息をのむというのだろう。言葉で言ってしまえとそれまでだが、多くの試行があったはずだ。










舞台後ろに客席がある





この日は連休市民見学会ということで、とても雰囲気もよかったのです。皆さん気ままに散策という感じがいいし、自由に歩き回って疲れたのか、大ホールでは椅子に腰掛けて気持ちよさそうに寝ている人が何人かいる。公演の無いときにはこんな感じで入れると楽しいのにと思った。

舞台から見ると、座席には水玉模様が施され、手前側は黒に近く、奥に行く程に赤くなってゆくのが解る。



正面から見ていると、右手の壁面が大きくたゆたっているのが解る。
なかなか今までに無い良い感じの場になっていると思う。行ってみる。
















外部では辺りが暗くなってくると、ガラスブロックが光り始めます。
エーーー、こんなファンタジックなことをやり始めたのかー。水玉模様が浮かび上がってくる。このファンタジーの楽しさ加減、単純さは誰にも解るものになっているように思えた。
なかなか楽しそうだなーと感じていたのですが、このわかりやすさは何なのだろうかと思い始めてしまった。こんなにファンタジックでいいのだろうか。

実際に見て感じているこの楽しさを信じよう。












少し建築的に考えてみよう。
このガラスブロックは窓としての採光を目的に作られているように見えるが、実際にはたいした明るさではない。今回オペラハウスという用途からも、暗いホールに挑戦している感じがあって、暗くていいのだというデザインになっている。大変落ち着いた感じになっていて、重くなく、いいと思う。このガラスブロックは暗い室内に、雰囲気としては明るさをもたらす照明器具として使われていると思う。

そうこのガラスブロックはほのかな明るさの照明器具と言うことができる。そうなのだこの仄かな明かりの照明器具はその配置のランダムな在り方からも、装飾として使われている。

装飾を前面に出した伊東豊雄の現在ということを考えていくことになるのだという感じがして来る。


ちょっとこれは私にはショックでした。
用途や機能を持った上での美しさというテーゼも、面を構成させる作り方というのも、恣意の装飾というところに接続しており、結局は近代デザインも装飾性をやっていたのかという感じがしてしまったのでした。
これに思い当たってから、まつもと市民芸術館体験記がなかなか書けないでいました。しっかり受け止められないと、文章は書けませんので。


前回近代建築として教えられてきたことに、装飾は悪だと教えられた世代と書きました。村野の目黒区庁舎でいえばエントランスホールのトップライトの内壁に張られた工芸装飾タイルとか、十字型照明器具に見る特異な形という装飾性のことでした。
私達が今やっている近代建築とは、用途を持った必要な建築部品に、出来るだけ単純な形を与えること。その範囲内で新しい形を模索すること。出来るだけ単純な面の構成に置き換えてゆくこと。材料の持っている性質の延長上として、新しい形を出したり、あくまで恣意的になることを避け、なんらかの有意味な関連の中に形のあり方を見いだしてゆくというものです。
装飾自体を付け加えたり、個人的な恣意の形を付けりするのを避けたいとやってきたと思うのです。

反対に渡辺誠とか高松伸とかの強烈な個人の恣意の形はおもしろいけど、あまりに個人の恣意でしかないので、みんなの共通の基盤から発想されているという前提がないところでの仕事ということになります。深いところで共通の課題を抱えているところがあるのでしょうが、なかなか見えてこないところです。その形の思いつきの面白さを競うということになっていて、共通の課題に答えを模索しているというあり方ではないでしょう。単独で勝手にやってることの面白さということが本領なのですよね。

最近彼らが単純さに向かっていて、近代建築の共通性に近づいてきたときに面白さが感じられたというのが、大江戸線飯田橋駅のゴキブリだったのかと気づいたりしています。



    結論
やられていることを後付けて見ると、あまり大振りにならずに、微細な自分のポジションを穿ってゆこうとする設計者の姿が見えてきます。
それは装飾といっても原広司の様相ほどのはっきりした模様を付けることではなく、ガラスブロックを大まかにちりばめるという程の抽象性の繰り返しに押さえられており、
同じように恣意といっても渡辺誠やゲーリー程の気ままな形ではなく、単純化の工業生産内の恣意であることが踏まえられているように思う。
一番難しく感じたところは、ガラスブロックのちりばめられた壁面のイメージの喚起するもの=ファンタジーの位置取りがディズニーランド的なおとぎの国にゆかないところで、誰にもわかりやすい水玉模様のような親近感を抱かせるところにとどまっていると判断できるかというところだった。
こういう微細を穿って、詰めてゆく位置取りに、後戻りでない、新たな建築の場所を求める装飾性として、やっと見出しえた。


この道がこれからの建築デザインの時代の共通の道につながっていることが見えてくるかどうかが、評価の分かれ目なのだろう。



                                040712

屋上広場(3枚つなぎ写真)




参考資料  けんちく激写資料室 まつもと市民芸術館






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