聖イグナチオ教会 行ってきました。
                  1999.5 設計 坂倉建築研究所
                      photo by mirutake  2004.5.2


上智大学構内 聖イグナチオ教会主聖堂、小聖堂と体験してきました。
建築の観点からどう取り上げるのかなかなかまとまって見えてこないので、今回は感じていることを個条書き風としました。 


例によって建築専門誌に、なかなか落ち着いた設定の小さな聖堂があることを知りました。
小聖堂を見に行ったのですが、実際に行くとどうしても大聖堂が目についてしまったので、まず見に行きました。















空気容量が大きく開放的な場。大きな儀式の場。
それでも普段は大きいが故に、みんなの中に埋もれて、初めてきた者でもいつまでも居られる。

この天井は花柄のような模様になっていて、装飾模様となっている。
ここまであからさまに花柄模様の装飾形になっているのが驚きでした。近代建築は装飾(様式)否定から始まって、機能からの形(機能主義)を目指しながら、結局は装飾に行き着いてしまっているのかと思えた。

この花柄が透けた天井面を作っていて、且つこの透けから、ハイサイドライトの光がサンサンと降り注ぐ構成になっている。

























一転、こちらの小ミサの場は、とても抑制された、渋い落ち着いた場として作られている。
一カ所に限定された、床から立ち上がった矩形の光の採り入れ方になっていて、ほとんどが暗がりになる為、とても落ち着いた場になっている。開口部下には水盤が据えられ、反射光が内部にまわっている。
正面の壁面はほとんど何も無い面で構成され、珪藻土に藁を仕込んだような粗壁で質素なつくり。壁のごく一部に曲面の凹みを作り棚をしつらえる。その棚下に一点紅い光を仕込む。思わずうなってしまいそうな、静寂に向かってデザインされた場なのだ。質素なのに光っているというか、現代建築ではなかなか無い主題の設定ですよね。

外観の無い建築。
と言うか、外観が主題でない建築ということか。
洞窟建築とか、地下街建築というか、規模が大きくなると内部それ自体で成る建築。

一人でいる時大変に落ち着けて良いが、狭い場ゆえに誰か他者が入ってくると気になって落ち着かなくなると言うこともある。

                           050125










  追伸1:この中庭に面する回廊もなかなかいいです。
超高層棟の高さの感覚を補完するかのように、回廊はとても低く抑えるよう工夫されています。
前回やってみたいことの一つの低いスケール感がここにあると思う。




  追伸2:最近の日経アーキテクチャーに
「50年〜60年代生まれには装飾的な建築を嫌悪する人が少なくないが、そうしたニヒルさ・・・・・」とある。
私は装飾を否定するつもりはないが、装飾それ自体の密度で見せる近代以前の建築をすごいとは思うが、建築のテーマが見つけられなくなったところでやっているものだと思っている。
そこでこんなことを書いてみた。

「装飾」と装飾性は違っている。
装飾性と言ったとき、必要な部材に、必ずしも必要でないのだが、ある意図した方向に感ぜられるような付け足しを始めることを装飾性と呼ぼう。はじめはパネルに必要な単純な目地割りであったものが、粗密なパターンで有意味なダイナミックな壁面を創ることができた。ところが徐々にエスカレートしてやりすぎてしまい、饒舌な繰り返しパターンの「装飾」になってしまたと言う末路まで。最近ここに陥った建築家がいる。

「装飾」は工芸の職人の世界であったり、工業化の世界へと通じている。この表現でない二番煎じの形式が安定した壁面を作る場となることもあると言っておくべきだが。

これに対し「装飾」まで行かないところでかろうじて耐えて、装飾性である表現にとどまって、意図した新しい感じを創ろうと試みているのが伊東豊雄だと思う。松本市民芸術館の均質にならない不規則な水玉模様や、TOD'Sの樹木を模した下から上に向かう、幹から枝への変容のコンクリートの壁柱に、このことを見ることができると思う。

ミースはバルセロナパビリオン設計図面の壁面に、自然石オニックスの模様を書き込んだというのを読んだことがある。近代建築の面の構成を=均質な単純面にならないように、自然石の模様に面の密度を託そうとしたのではないかと思うのです。ここにも新しい模様=装飾性の始まりがあったのだと思えるのです。
                0503012


参考hp
    聖イグナチオ教会

    坂倉建築研究所
    清水建設






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