「私の家」

              1953 設計 清家 清
                photo by mirutake 2005.9

    清家清「私の家」を読む

清家清展もおわった。
ここでシンポジウムがあって、そこに参加した人に呼びかけられて、清家清の建築を見る都内バスツアーが先着30名で企画され、これに参加した。見学先は乃村工藝社という事務所ビルと、久ケ原の家、そして「私の家」というものだった。(予定には無かったのですが、「続私の家」「倅の家」も見せてもらえました。)なんと言っても建築家の作品が見れると言う以上に、建築家の自邸であり戦後すぐの夫婦のためのワンルーム住宅を見れると言うのが最大の魅力だった。

道路からアプローチするとまずそのシダに囲まれた塀の高さ・長さに気づかされた。
結構閉鎖的で守られていると言える。中にはいると庭のいちばん端から住居にアプローチするようになっている。(初めは住宅のすぐ横から入るようになっていたが、いきなりの来訪者になってしまうので、現在の位置に改められたとのこと。)庭にはいると、そこは広大で閉鎖感は全くない。大きなケヤキがあり、大きな空を抱え込んでいる。でもここはコートハウスと言った方が適切な囲まれかたなのだ。庭がものすごく大きなコートハウス。

住居に近づくと、長女の方が迎えてくれて、例のテラスに面する大きな引き戸を一気に、がらがらとばかりに引き込んで見せてくれたのにはちょっとびっくり。いまだにスムーズに開く現役の建具たちと言う感じだ。感動。

そこで学生らしきあんちゃんがいきなり土足で居間に飛び込んでいった。私は2番手だったが、そのあんちゃんに吊られて、足を上げたものの下ろすことができない。躊躇していると、長女の方が、一応靴は脱いで使っていますのでと たしなめられ、やっとテラスに足を下ろすことができた。テラスの鉄平石は砂にまみれていたが、居間の鉄平石は黒光りしており、手を触れると しっとりとした感触が、残暑の季節に心地よく冷たさが伝わってきた。これなら床にごろごろもできると思われた。後でこの庭先に座り、じっくり内外の関係に思いをはせる時間を持つことができた。

内部にはいると、まず本棚のペンキ塗りに時代の長さを耐えてきた感覚を持ったのでした。あー、初めてなのになんか懐かしい感じだ。ここは外部と板一枚なのか?!。(現場では確認するのを忘れ、図面を見ると板にモルタルリシンカキ落しとなっている。)
居間から空間を庭側に向かって、室内の感覚を味わう。人がいっぱいだけど。
天井のコンクリート打放しを見る。板の目地がコンクリートに出てているのがよく解る。室内は少し暗く、床の鉄平石ともあい、落ち着いた雰囲気になっているのだと思う(人が多くて)。部分照明になっている。

寝室部分にあたる窓を見る。あんな頃にすでにガラスブロックがあったのか。壁は打放しコンクリートではなく、人造石研ぎ出しになっている。なんと手間のかかる。ベットは置いてなかった。(清家清展に出ているとのこと。)
地下室を見る。ここは当初書斎、後に子供室として使われた。
結構延べ床面積があると思う。50+20=70u(21.2坪)

そうだトイレを見なくっちゃ。
そこに便器はありませんでした。配管の残りにガムテープが巻いてあります。シャワーがあったのかなー?ビデがあったんだよなー。すぐ裏手に浴室とともに増築されていた。
台所を見る。当たり前だが当時のものではない。ちょー狭い。
居間の建具や敷居・鴨居を見る。その縦枠を見る。これがコンクリートで出きているとは思えない細さ。70ミリくらいか。人造石研ぎ出し仕上げ。これ構造的には効いちゃってるんだろうなー。
右側の大窓。今は動かないとのこと。これが下部に収納された。


この建物が、鉄筋コンクリート構造(RC造)であることは驚きでした。
清家清展でのシンポジウムで聞かされ、びっくりしました。木造と思っていましたから。この建物の外観を見ますと、建具の面構成になっていることが解ります。この「私の家」以前に建てられた同様のデザインコンセプトの住宅が、木造で建てられています。この自邸では不燃建築を目指すことと、プレファビリケーションの実験と思われます。RC造の建築はこれ以前には他の建築家によってコンクリート壁の面構成として作られています。これ以後もまたそう作られてきました。RC造で壁構造でも、柱梁構造でも、コンクリートの力強さを出している物ばかりな訳です。それを全く打ち破るRC造の建築があるということなのです。建具建築じゃないかという揶揄もあるとのことですが、RC造にしてこの軽快さ開放感はミースに通じるものなのですね。(このことは藤森さんが明らかにしています。*1)



道路から塀を見る。鉄骨筋交いの後ろが「私の家」

ケヤキが天空を抱えている。







鉄筋のトラス、カーテンと持ち出し棚、玄関に当たる部分の大理石、床の鉄平石、移動畳、奥の壁一面の本棚。

鉄平石の間が開いているが、当初からこうだったのかなー。







寝室ゾーンのガラスブロック。床に地下室の明かり取り丸ガラスブロック。

これは改修した台所。



当初はこの奥に出入り口があった。

コンクリート人造石研ぎ出しの竪枠。

下に収納される窓。



妻壁部のレンガが見える。

足洗い場か。

コンクリート打放し天井と上枠レール。

しっかりしたレールと朽ちてきている建具。




今やっと体験記録なら、文章になってきている。
でも行ってからまだ2ヶ月だ。書こうというテーマがいくつもある。一番大事なのは、戦後初めての夫婦のためのワンルーム住宅だと言うことなのだが。そしてワンルーム住宅とは何か?と言うことを改めてつかみ出したい。

通常は各機能によって各室に分けられている。居間、食堂、台所、寝室、便所、浴室(「私の家」に浴室はない)。これらがワンルームとなると、各機能がゾーンとして設定され、空間が一つに連続していると言うこと。このことが何を意味するのだろうか。夫婦にとって。
体験的なところから言ってみるなら、それは一人になる空間がないことを言っている。夫婦別個室を設ける現在の夫婦意識から見れば、個体として閉じこもれる一人の時間を大切にすると言うことではなく、夫婦にプライバシーはいらないと考えられた、「夫婦は一体」だとの考え方が始まった時代と言うことなのだ。

夫婦が一体だと言う理念のところから、実際にやってみよう、やれるのではないかと言う戦後的な夫婦の意識の現れを、ワンルーム住宅に見て良いのだと思う。そう徹底的にこれをやってみようと言う意識を。いや徹底的と言うよりも、そう始めることが大きな希望としてあったのかもしれないと思う。戦後という時空にあって、自分たちもあのアメリカ的な夫婦の明るさを思ったのではないか。*2

便所さえ壁で囲わなかったと言うことが、この希望(徹底性)を言っているのだと思うことができるのではないだろうか。かつて筆者は思いつきでやっているくらいにしか考えられなかった。自分たち夫婦がそれをやれないとは思えなかったが、ここまでやるのはちょっと恥ずかしいと。でもここは建築家の自邸なのだから。示しえるところの極北をやるしかないと言うことか。おまけにビデもかつてはセットされていた。先進のことではないのかな。これこそ夫婦のための空間であることを強烈に示している象徴的な物だった。

資料を当たってみると、婦人参政権(1945)とか、男女平等を憲法(1947)に謳われ夫婦中心の家族像が打ち出された。漫画の「ブロンディ」に皿洗いをする夫の姿とか、戦後の開放的な時空を示すものとして取り上げられている。これらをリアルタイムに受け取ったときの開放感と、若い夫婦の世代の始まりが、夫婦二人だけで生活できる気恥ずかしさを感じることができるところまで想像力を持って行けるだろうか。そこまで行けたときに清家清の「私の家」の戦後初めてのワンルーム住宅の意味が浮かび上がることができると思う。



 戦前にすでに機能主義にもとずく、すなわち機能によって各室を設けるモダンリビングは建築家たちによって成立している。けれどこの夫婦のためのモダンリビングは戦前の中産階層のための物だった。それを女中室が、夫婦の親密な空間を作らないことを意味し得るはずだ。そしてこの一般性としての夫婦中心の戦後モダンリビングを目指したのが、清家清の「私の家」というワンルーム住宅であったのではないか。

建築の規模を金融公庫の融資範囲に限ること、それでも狭くない感覚を実現するには、ワンルームとして作ることが、夫婦が一体であることを前提にしえるのだから、理念としても最も優れた回答と考えられた。かつて江戸期においても、明治期においても、大衆の家(借家)はワンルームであった。それは一室を時間転用によって、寝室から食堂から憩いの居間として、同じ部屋が使われていたのだ。その大衆の住居と比べればなんと広いことか。このような転用が大衆の住居の後進性を招いていると西山夘三によって批判されていたのだが。*3

けれど住宅にとって何が一番大切なのかと言う問いなしに、面積の拡張や機能による室分離に向かうことが専制され、住まいの条件であると語られてしまうことが、何を意味してしまったのか。この「私の家」に示されているのは機能主義のモダンリビングをそのまま実現しようとすることより、何がたいせつなのもなのかと言う問いかけから、夫婦の一体性を取り出し、それなら日本の大衆が当時そうあり工夫を凝らしてきた転用の住まい方の中=そこにこれからの夫婦の姿を込めることができると、建築家は考えたのではないのか。*4

そしてワンルーム住宅について今回捕らえ直したいとする過程で私が掴みだしたのは、夫婦と子供との関係であった。ワンルーム住居では子どもに一人の部屋で寝なさいと言うことにならない、と言うこのことに意味があるのではないだろうか。何歳になっても空間的なつながりが、親子のつながった意識を年齢なりに保証してゆく。それは乳幼児なら親と一緒のベットだが、大きくなるに従ってワンルームでの違うベット(移動畳)での適切な距離を取ることになると。

小さな子とのつながった意識がどんなに大切かは、スポック博士の育児に則ってしまった子育てがこれを逆証明してしまった。この機能主義が目指すのは、夫婦寝室と子供室との分離である。子供は自分の部屋で寝なくてはならない。夫婦は二人で寝ているのに、小さな子どもが何故一人で寝なくてはならないのか。子どもが何故一人取り残されなくてはならないのか。
現在親子分離論が問えるところにきた。この機能主義の子供と夫婦との分離思想が何をもたらしたか。現在の教育家族の機能論が示す混乱以外ではない。


勿論子どもと両親が、いつまでワンルームでいられるのかと言うことがある。
自分のことを記すと、夫婦二人の時は当然ながらワンルーム住居であった。子どもが大きくなって、子供室を与えたときにも、乳幼児の頃からワンルームに共にいることが自然なせいか、眠っている姿を帰宅したときに見て安心すると言うことなのか、個室の扉を開け放してやってきた。今も3LDKの玄関から個室が並んでいるプランになって、子どもも成人しているが、個室の扉、寝室の扉を開け放してワンルーム住居方式として使うことに変わりはない。これにはきっと親子相互の不干渉の関係が成立していないと無理なんだろう。ということは親子の干渉の度合いが、ワンルームでどこまで行けるのかを決めるのだと思う。
(「建築家の自邸に見る家族意識」芹沢俊介 には東孝光の「塔の家」を縦につながったワンルームと見なし、親子の他者性としてこのことが詳しく書かれている。)*5



そして最後に、この住宅の内外一体性についてです。
「私の家」の「素足の感触」と言うことを頼りに、現在の抽象的自然空間へとつながる解説ができるのではないかと考えたのです。

土足で室内に入る感覚ですと、ベットの上だけが素足の感覚でいられるところと言うことでしょう。清家は当初アメリカの住居の様式を真似て土足にしたと言ってます。これは室内での土足と言う新しい住まい方が、外部庭での土足と一体な空間=内外一体性の広い空間が作れると考えたのでしょう。この住宅が発表された新建築の外観の写真を見ますと、道路が砂利敷きであることが解ります。戦後という時期=外部空間で過ごさざる終えない時期に当たっていたのではないでしょうか。戦後すぐの屋外生活であったところからも発想されたと考えていいと思うのです。ここに目指された内外一体は、大きな庭と一体の内部居間にしようと試みたと言うことでした。
(「私の家」は竣工が53年で、新建築誌への発表が57年です。雑誌の文章ではまだ土足をやっていこうと書かれています。)

それにしても都市での道路が舗装されていないこの時期では条件が悪かったと言うことだったと思います。
それでもはじめから子どもさんや同居の動物は内外一体で素足だったと報告されています。
また子どもさんが床にぺったりとひっついて、床暖房の快適さを享受していたと報告されてもいます。ベッドの上だけが素足なのと、住居全体が素足なのは身体自体の休息感が大きく違います。このことで床全体にぺったりできる日本的な住居内素足の様式に変えたのだと思います。住宅内素足の感覚を前提に、庭を内部として抱えられるためには、道路の舗装と言うこと、庭が砂利や芝生ではなくペイブされること、塀に守られた内庭と言うことなどが条件になって初めて可能となる、現代的なものだったと思うのです。そこへの第一歩を戦後すぐに試みられていたと言うことが「私の家」の庭の鉄平石ペイブと内部居間の鉄平石仕上げの意味だと思うのです。

そう、ここで注視したいのはこのペーブの庭が高い塀によって道路からは完全に守られたものであることです。そうここには「守られた内庭」=コートハウス型への戦後の出発があるわけです。
建築雑誌からでは見落としがちですが、ここではこんなにも広大な庭が高い塀によって囲まれているのです。そうここは広大な庭のワンルーム+コートハウスなのです。外部から守られて初めて抽象的自然への出発があると思うのです。


これが解ると、この後の建築家達がやった、ピロティによって住居を持ち上げたことの意義がここに接続できるのではないでしょうか。特に前回取り上げた吉村順三の「軽井沢の山荘」では、緑豊かな別荘地であるのだから、無粋に高い塀で囲むことははばかられます。ならば持ち上げることでプライバシーを守れ,土から離れることができると考えたのではないでしょうか。ここには見る自然に囲まれる快適さが目指されています。そう、抽象的自然です。

またこれは都市住居でも実は同じでした。急激な都市化の中、家屋敷の屋敷は削られ続け、庭はすでに設けられない規模になっていました。それでも建築家達は庭に向かって開きたい!と考え続けていました。開きながら私性を上手く保つにはどうしたらいいのか?と。それが安藤忠雄にみる狭小内庭なのだと思うのです。そしてこの庭は内部に近づいてゆく。あの「私の家」で子どもさんがペッタリくっついていた鉄平石の感覚を外部の床に実現したいと。
すでにこれに続くいくつもの住宅作品に現れてきています。

                        mirutake 051111



*1 藤森照信の原・現代住宅再見 TOTO出版 (2002/12/10) ¥ 2,400
*2 実際はそんなに甘いものではありませんでしたね。私の体験はアメリカからやってきたテレビドラマ「パパは何でも知っている」とか、「走れヒューリー」とか。私もまた子供ながらに家族の明るさや優しさを感じたものでした。けれど、現在のアメリカの家族がいかに病んでいるかは、「卒業」とか「ボウリング・フォー・コロンバイン」とか、あげればきりがないでしょう。
*3 建築家はこの転用の住まい方を「舗設」といい、平安の貴族の住まい方の伝統だと言って紹介している。この転用概念は時間軸を子どもの成長過程にとることで、現在に展開して行くことが可能と思われた。
*4 「私の家」白書―戦後小住宅の半世紀 (住まい学大系) 清家清著 住まいの図書館出版局 (2000/09)
>>だから西山夘三先生の食寝分離なんて言葉がちょうど同じ時代に出てくるわけです。食寝分離というのは、食事は食堂に、就寝は寝室に機能を固定することです。それよりも、食寝をワンルームの中で時間のシークエンスのなかにおいた方が、私はプロレタリアートとしては正しいと思う。>>
 このようにはっきりと述べられていて、目の覚める思いがしました。
このことは当時から建築家たちには、はっきり指摘されていたといえる。ワンルーム住宅はこれ以降、面積的に豊かになっても、一体夫婦の理念として建築家たちによって繰り返され、変奏されるてゆく。その頂点が菊竹清訓の「スカイハウス」。ここら辺も「建築家の自邸に見る家族意識」に詳しい。
*5 戦後のワンルーム住居の意味については、社会評論家 芹沢俊介氏の「建築家の住宅に現れた家族意識」に詳しく書かれている。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/mirutake/serizawa00.html









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