東京都現代美術館の
「ルイス・バラガン」展 見てきました。



ギラルディ邸 夜間照明に浮かぶ食堂のプール
TOTO出版 「ルイス・バラガンの建築」より 斎藤裕 著写真



    体験外記 「ルイス・バラガン」展を見て


 情報化時代=バーチャル空間全盛の時代を向かえて、建築自体は実際に体験することで感じるものに主題が移って行くのではないか!と言うところから、この「けんちく探訪」を始めました。ですから、体験でないものは掲載しずらいことに不都合を感じ始めたのです。 そこでわざわざ体験外記をうたって、その狭間を詰めて行くことを始めます。

 バラガン展を見ても、バラガンの建築を実際体験したことではありません。
写真や図面や模型や実大模型を見たのにすぎないのです.そして特にあの実大模型と言うのは相当に怪しいなーと思いました。単なるスペースを実大で作ってみせただけで、空間の印象をイメージさせるものが決定的に欠落しているように思いました。斎藤裕氏の写真を見る方がよっぽどいいと思いました。そうバラカンの建築は実際に体験しえなくても、得られる情報から自分なりの建築体験や解釈によってイメージを作って行くと言うことが大切に思われた。バラガンに限らず、情報の再解釈から自分なりのイメージを作っていくことでしょう。住宅建築は特に無名の私達には体験不能ですから。



 バラガンの建築は「色彩面構成」の建築と言うことだ。
会場の終ったところで安藤忠雄がヴィデオに登場してバラカン作品の探訪をしていた。「こんなにも抽象度の高い建築は他に無いと思う。」と言っていた。それは近代初期から始まった絵画のような=面構成によって建築の新たな美を作って行こうとする動きとして始まった。「構成」という建築的「抽象」の作り方が、「白い壁」から、石の「素材感」の面構成から、コンクリート打ち放しの「素材感」の面構成へと発展してきていた。そんな中で、メキシコのバラガンは、独自の「色彩」の面構成にいたることによって、より現実離れした感覚を抱かせる建築空間を創り出していた。この事を抽象度の高いと言う言い方をしたと言うことだ。
 ところで私の感覚では、バラガンの建築はここにとどまっていない。
晩年に作られたギラルディ邸は、その廊下に「太陽光」を利用したスリット色彩(黄色)ガラスと、その奥にかいま見せる、トップライトのプール付き食堂に、色彩面構成の集中建築構成を持ち込んだ。
 そしてこのこと以上に、そのプールの水中に仕込んだ「夜間照明」によって、白い壁面に妖しい浮遊色を達成したことこそ、バラカン最後の先端であった。それはその死後も、現代美術に、現代建築に、光のインスタレーションとして展開されたところの物なのだから。  


 そして一呼吸おいてからはっきりした言葉が浮かびました。
バラガンの建築表現の先端はこのバラガン展ではなく、斉藤裕氏のギラルディ邸=夜間照明に浮かぶプール付き食堂の写真に、妖しく定着されているということです。展示の最後に斉藤氏の写真集が2冊ありますので,この夜間照明に浮き上がった水中からの色彩に染められた壁面をよーく御覧になってください。

追伸 バラガンの建築を今まで通りの図面スケッチ写真(古い)として網羅したものが今回のバラガン展と言えそうだ。
とくに造園としての作品は始めてだったので、面白かった。スケールの大きさがこんなにも違うんだと言う感じ。扱う樹木の古木を見ていると、大自然そのままの在り方ではないかと思える。

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      ルイス・バラガンの室内
      INAX出版「色彩建築」を見て


 近代建築の巨匠達の始まりは「絵画(キュビスム)になりたかった建築」として始まった。(結構一般的な解釈かもしれない)キュビスム絵画を、世界を面の構成と了解し、ここを突き詰めて行くとき、では「色彩」がどうなったのかと言う想いが沸いてきてしまうはずだ。そうなのだ色彩面構成としての建築の出現は、当然の成り行きなはずと思われた。けれど私達は豊かに色彩あふれた建築を知らない。

 少し前の本なのだが、INAX出版から「色彩建築」(9609)と言う本が出ていた。
この本を読むと以外にも、近代建築は全て色彩を持っており、色彩を使ってないのは、バウハウス校舎だけだと言っている。そう言えばコルの打ち放しのラ・トゥレット修道院とか、部分的に色彩が使われてはいる。しかし、コンクリート打放しにちょっとだけ原色をあしらうという、こういう使い方もあるのかと思うくらいで、色彩豊かとはとても言えない。
 逆の例になるが、近年ではジョンジャーディのキャナルシティにしても「狂気の沙汰か、アメリカ人とはやっぱり感性が全く違うよね」と思ってしまう、滅茶苦茶な色彩感覚と言う感じで、色彩建築には辟易だと思ってきた。INAXのこの「色彩建築」の本がそもそも、滅茶苦茶な色彩感覚と言う感じで、このとうりに辟易としか思えない。
 勿論色彩を使うある作家も良いんだけど、薄い色を曖昧に使っていて、何となく伝わってこない。何よりも息をのむほどの色彩感覚とは言えないから、凡人には色彩建築の良さに気づけずにいた。

 けれどこの本に一部載っているのですが、メキシコのルイス・バラガンのギラルディ邸に実現された色彩感覚は、正に息をのむもので、「絵画になりたかった建築」そのままに、「色彩面構成」の建築として十分に堪能できる。
 バラガンの紹介自体がたった3ぺージしかないし、写真が小さいのでなかなか気づけずにいたのですが、よくよく見るとこのように率直に実現された「色彩」=「面構成の建築」を他に知らない。

 このギラルディ邸のダイニングルームのものだという写真は、水面(プール)があって、照明が水中から当てられているようで、色の透明感・浮遊感を抱かせてすごいと思った。これらの建築は写真で十分に伝わるものだ。もっと言ってしまえば写真でこそその良さを本物以上に伝えられると言うことでしょう。それは実物を見たらがっかりするかも知れない、と言う意味を含んで。

 バラガンについては皆さんに評価を聞いて行きますと、地域性で片づけようとしますね。
 あれはメキシコという風土で、普通の民家も原色を塗りたくっているという前提があって、それを大面積の面構成に変えていったところで、違和感なくうけいれられるんだということです。確かに外観をあのように原色の色を付けるには、メキシコ以外には商業施設の破廉恥さとしてしか成り立たないかもしれません。
 それでも改装したときの、色彩が蘇ったときの感激をバラガンの紹介をしている建築家の斉藤裕は語っています。こういうものとしてみれば、何年おきかに再生する美しさを見られると言うことではあります。

 でも、そんなことで終ってしまうものではありません。バラガンの作品の白眉は内部にあるのです。
しかもギラルディ邸の「内部」だけです。
 それにしてもと、みんな感じているでしょう。塗装だけだといくらやってみても深みというのは出てこないですよ!と。材料としての限界自体は抱えてはいますよね。
 それでも、この内部の(1)池と、(2)照明の当て方、(3)蛍光色を使った透明感ということが、「浮遊」感となって異界を感じさせます。それは青と赤にぬられた部分が着色されているですが、残りの天井と壁はニュートラルな白になっていて、これは無彩色の仕上げとなっています。水面も然りです。
 そしてこの白眉は夜間になると無彩色であった壁や天井も、そして水面も照明によって色彩を与えられて、この浮遊感=異界感を生んでいることがやっと解ってきました。

 これは現在の建築の色彩として先端の感性に届いているのではないでしょうか。
22年前(1978)の作品です。絵画になりたかった色彩建築の、現在での先端であると思うのです。ここには色彩建築にこだわった人の、「現在」での色彩感覚の先端、「素材」に水中照明をあてることで単なる着色面でない、透明感を持った「素材感覚の色」として提出されていると見るべきなのだ、と言えるのではないでしょうか。



 これに続く人がいるとしたら、着色ガラスにしたり半透明着色加工であったり、照明の光を受けて浮遊感を目指すのでしょうか。色ガラスと言えば、近代初期のタウトのクリスタルパレスを思い出します。本当はタウトの続きになるのでしょうか。
 また現代美術に少し例(ジェームス・タレル 光のインスタレーション)が見られるばかりでなく、INAX出版のヨーロッパの建築紹介の第2段を見ると、3例ほど照明による色彩内部空間の建築が見られます。それらは共通にタレルの光のインスタレーションに近いものです。

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   (かつて「色彩建築」を見ていて、ギラルディ邱の写真に魅せられて、感激して書いた文章です。)


東京都現代美術館
住楽孝 バラガン
Luis Barragan (1902-1988)
ルイス・バラガン 静かなる革命






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