第1回東京ガーデニングショー
      行ってきました。



 「第1回東京ガーデニングショー」が、御苑前から行くと絵画館まえの総合グランド(野球場)を会場として開かれていました。開園2日目の4月9日と5月7日最終日にゆきました。

 先入観から述べますと、「ガーデニング」というのはテレビ番組でコンペがあったりして、家庭園芸として花を愛でる言うところからは一歩をでていて、それなりのイメージを創ると言うところまではいっていたなと言う程度でした。
 これに対し、「建築」で取り上げられている「ランドスケープ」と言う在り方は、今までの造園というのとは違った、現代的な幾何学パターンでのデザイン(ピーター・ウォーカーなど)をもってアートとコラボレイトしたり、風景を作り出そうとするもの(豊田美術館)、アースワーク(伊東豊雄「大田区休養村東部」)という現代環境アートの領域まで接続しているものさえでてきていると思っています。
 こう言う先入観を持ってはいるのですが、それでもなにかあるのではないか?と言う淡い期待も持って行ってきました。

 
自然の韻(うた)が聞こえる庭


 フロム・ネイチャーのカントリーコテージ計画


 おばあさんの庭


 洗濯物の似合う庭


 塚


「湿地」 360°パノラマ




 全体を見ますと、前記家庭園芸から一歩も出ないものもありますし、
幾何学パターン的な平面庭を造っているもの、
住居も庭からの様式と捕らえて、その庭のイメージから住居を再現創造しているものとか、
生け花の大型判とおぼしき造形をしているもの、
また自然の湿地的な場の再現に力を注いでいるものとか、
山なかにある小さな石宮=おいなりさんの場の再現とか(ここまで出来るんだと感激、結構良かった)、
 明治時代からの農家住居の様式の展開がありますが、これを彷彿させ、これと連動した庭の展開と思わせる感がありました。野菜を作っている畑のある庭は良くできていました。
(町屋の庭というのはありませんでしたが。)
 また全くイメージの中で「老後の田舎暮らし」というコンセプトで、ディズニー漫画的な創造再現農家のようなものも有りました。
なかなか千差万別。



 こういった雑多なものの中で、抜きんでて新しい「庭」というのか、「ランドスケープ」と言うのか、「空間」というのか、造園としての自己表現の先端を目指していると思われる創造がありました。


「庭の神様御滞在」(1) 4月9日 300°パノラマ



「庭の神様御滞在」(2) 5月7日 360°パノラマ



 それは一言で全体像を言ってしまえば、今日の多くの造園やランドスケープが開放空間を当たり前に作っているときに、造園でも内部空間という感覚を意識させる作り方があり得るのだという、挑戦と取れました。
 作家のコンセプト文としては、「幼児期の林とか神社に入ったときにふと発見した、囲まれた感じの場所」というのを作ってみたいと言うことでした。(作者にインタビューしました。)その作品は、与えられた一区画(8m×16mくらいか)をゾーンとしての植栽で囲むことによって、囲まれた林の中に入ってしまったという感覚を作り出していました。それはガーデニングというと、名前の解る花を幾種類も取りそろえてゆくことに主眼が置かれていています。全体で何かをイメージさせると言うところまで、造形意識が行っていないと言うことを作家は言っていました。
 作家には建築的(あるいは環境的)な内部空間と言う明確は意識はないようです。またランドスケープと言う造形は面として植栽や舗装材を使うことには長けていますし、「風景」を作ろうという意識はありますが、、未だ心象的な内部空間を作ろうという試みに出会ったととはありません。日本の造園には回遊するという作り方の中に、部分的なまとまりを作ってこれを接続している作り方があると思う、けれどこれは場所として設定されているもので、内部空間を作ろうとしたものはないと言うところでしょう。

 この作品は、造園の手法としては、植栽の少ない種で何重かの「環」を作ることで内部感覚を作ろうとしていると思う。
1)最外周に高さ3メートルくらいのユキヤナギを内側に向かってすこし垂れた感じで配し、
2)次にその内側にコデマリの背の高いものを配し、
3)そしてまたその内側に今度は低い庭木のコデマリを内側を向けて0.5m位の高さに配している。全体は不整形の環に囲まれた感じを出して植えています。空間の意識が場の内側に向かって重心を落としていくように、植栽群によって段々と重心が内側に向かうように作られていると言うことです。これらが覆い被さるように風に揺れる外側のユキヤナギと、最内周の優しげに語りかけて来るかのような沢山の白いコデマリの花とで、囲まれた空間感覚へと意識を凝集させえていると思う。

 それは個体としてある自分を感じさせるような、空間感覚を作り出すことに成功しているように思われました。こう言う囲まれた感覚という造園を体験したことがなかった私には、大変に新鮮なものに思われました。個人的な体験としては、2000m級の山を歩いているときに、尾根筋で突然樹木に囲まれている自分を発見したときの感覚が、この中にはいると、直ぐに蘇ってきて、とても感激してしまいました。足下に目を移してみますと、土の路と共に、植栽との関係を、黒い瓦礫のような自然石(浅間山の麓、鬼押し出しの火山岩のような)で平坦な路からの起伏を外側に向かって、作っていっています。作品全体が幾何学形の整形にならないで、不整形で自然の状態の再現で有るかのように作られていることも、心象風景を呼び起こす力になっているのではと思われます。こう言う空間感覚を意識させる造園というのもあり得るのだと言うことに痛く感じ入りました。

 建築空間の表現は多くのものが、個人として内部空間に対峙するという感覚を作ることに目標を置いていると思います。古建築から古民家建築、そして現代建築まで、こう言う傑作には枚挙にいとまがないことでしょう。けれど造園の世界でこれに匹敵する作品にお目に掛かったのは初めてなのでした。この作家がこれからも多くの傑作を作って、いつか公共空間にこのような内部空間感覚を体験させてくれる造園ランドを作ってくれることを期待しています。

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 それにしてもこの植栽空間というのは、非幾何学形=自然形で、写真では造形の感じがよく解りませんね。本当に実物体験でないと掴めない空間と言うことではあります。
360度は最終日に行ったもので、このときには最前列のコデマリの花が散ってしまって、重心が高くなってしまっていました。それは場の求心性が弱くなっていると言うことです。スケール感も現実感に近づいてしまたとおもう。空間の囲まれた感じはよく解りますが。前回はもっと大きく感じた。植物で造形するというのは水物だなーと思いました。逆にこのことが来るたびにいろんな変化として味わい深いものとなると言うことですが。




 内部空間感覚というものについて少し書いてみたくなりました。
それは世界(外界)の対象化意識のことだと思うのです。対象化意識とは、自分が世界に囲まれてあること、世界と自分が対峙している関係にあることを直感することだと思うのです。このことは特殊なことではありません。最も誰にでも身近なこの感覚は、恋愛関係に陥ったときに、二人と世界(外界)との関係として、自分たちが自分たちだけの世界を持って、その外側に今までので世界が対象的に空間感覚として見えているという体験を、多くの方がしているはずです。また失恋の時には一人で今までの世界が自分の視野に立ち現れるという感覚も体験しているのではないでしょうか。こう言う日常的な風景が急に視野に対象的になって見えてきてしまうことを、世界の対象化の「実際」の体験と言うことが出来ると思う。「実際」の体験に対して「観念」の体験を、物事の理解としての世界の直感の体験というのだと思う。
 今までの世界の対象化が意識(観念操作)としての高まり、直感であったのに対して、造形で新たな世界観を提示して、この提示された造形から新しい世界の出現を直感させることを、ここでは内部空間体験と言ってみたいのです。この体験は造形物によって自己と世界(外界)との関係を直感させることと言えると思う。この場合の造形物が、建築空間であったり、造形美術空間であったり、造園空間であったりすると言うことです。


 そしてこの次の問い掛けとしては、では今回のこの造園内部空間は何を表現主題としているのでしょうか?と言うのが最後の問い掛けになるのでしょう。まだよくわかりませんし、ここからはなかなか意味づけできないものなのだとおもいます。でも「野生の思考」のようなものと言ってしまいたい衝動があります。造園という自然を飼い慣らした作り方を、もう一度、できるだけ野生としての人間の心象風景の切り取りへと向かっていると言うことではないでしょうか。このことは作家が「一歩間違えばただの雑草だと言われてしまいかねない」と言っていたことを思いだします。

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