ISSEY MIYAKE Making Things

   三宅一生展見てきました



 私はファッション界には不案内ですが、三宅一生なるファッションデザイナーが、自己の服飾領域を拡張して、身体を包む衣服を室内大に拡張したり、空間の対象場を造ったり、していることがわかった。これは是非とも解読したい。

 インスタレーション= [installation]〔原義は、取り付け・据え付けの意〕現代芸術において、従来の彫刻や絵画というジャンルに組み込むことができない作品とその環境を、総体として観客に呈示する芸術的空間のこと。







1)プリーツファッションのインスタレーション。
 三宅のデザインのプリーツを「着た」、「プリーツの(皮膚の)マネキン」が、2体づつ8体くらい壁際に配されている。このマネキンの抽象的な分だけ存在感を振りまいており、近づいて素材感やプリーツの襞を見つめていると、動き出しそうな感覚がやってくる。マネキンをプリーツの皮膚で作ったことが効いていると思う。またよく見ると壁面一杯にプリーツとその服飾作品が表面のこれまたプリーツクロスの下に、木製角材で1m位に水平の区切りを付けながら貼りつけられている。壁面がマネキン(の皮膚)やその服飾と同一のプリーツ素材であることが、どういうことなのか?と思いながらマネキンの廻りを静かに回遊すると、マネキンが生々しい肉体を持った人間ではないかという感覚が=プリーツの下にいるのではないかと思えてくる。そして鑑賞する人々とプリーツマネキンとが混交しているのが不思議な気がしてくるのだ。








2)カラフルな、またシックな服飾作品を天井からワイヤーによって釣り下げ、それをモーターにより単純だがいろいろな動きをさせて、楽しい。美術展示の「いつもの」静的な作品の感覚ではなく、動く遊具の味わいを発散する。そこに絡む見学者のハシャイでいる姿がとても楽しい。
 そしてこれらのことを対象化している感覚を、壁面に置かれたベンチ席に座わると感じさせてくれる設定になっている。
 服飾はモデルを離れて、ものとしてカラフルで軽やかで自在にあった。ピアノ線入りの服飾はモデルを拘束しているが、モデルがいないと遊具そのものもだ。三宅の服飾デザインはボディラインを見せるものがないと感じる。








3)ファッション発表会のムービー映像を、壁面一杯に横に並べられた3面スクリーンに、それぞれ違ったアングルで同一場面を見せている。
スクリーンと平行に、横一列に並べられたベンチは部屋の中心線に置かれたいる。そのためベンチに座っている人たちの後ろに、通路になるスペースが残されているので、その後ろの壁面に寄りかかり床に直に座って、中央の見学者をも見ることになる。壁に寄り掛かり座り込むことで、この室全体を感じる空間感覚を=対象化の感覚を得る。

 映像はモデルが行き来するファッション通信などでよく見る光景だが、映像にプリーツ加工がされていて、垂直線がギザギザになっている。よくファッション通信をテレビで見る私は、モデルの顔や胸腰足などに視線を集中しその質感を感知しようとしているのだが、ここでは映像がプリーツ加工されているために不鮮明で注視できない。また3面映像と言うこともあって、映像自体にも集中せず、映像の流れるスピードと、シルエットになっているこれを見ている人々、そのベンチの位置、その後ろを歩いてゆく見学者などを等価に眺めることになる。適切なボリュウームのクラシック系の音楽といい、床に足を投げ出して見れる姿勢といい、とても心地よい「空間」(この室全体の在り方)を感じる場になっている。

 ここでは鑑賞者を鑑賞するという関係を設定していることが、特に空間(環境)を対象化をさせているように思う。また天井の格子梁も2)の展示室同様、空間対象化感覚を助けていると思う。

 一回10分ばかりの映像を3回程見たところで、この心地よさから冷房設備の不快さによって立たざるおえなかった。けれどこの試みが、こらからの美術館の「ここでしか」得られぬ心地よい空間時間の体験を一時過ごさせてくれる、「場の確保」に向かってゆくことは確実と思われた。
 これは前回取り上げた対象空間の在り方をここも実現していると思う。
室空間全体を対象化させてくれるインスタレーションだと思う。自宅の居間のテレビで見るファッション通信の拡大版と感ずる。
 ところでこのことを可能とする、居心地の良い空調というのをなんとしても実現させねばならぬ。現在の冷えればいいと言うのではどうしようもないなー。躯体冷暖房はどうして一般化しないんだろう。








4)服飾の作られ方=解説映像。
 ここでは暗い室内で服飾作品にスポットライトが当てられている。その直ぐ下の床に天井から解説映像を映す。鑑賞者は床の映像を踏んで良いのかという思いが湧くので、光の玉に追いかけられたりしてびっくりする。映像が鑑賞者に直に関係してくる感じがして、ここでもインタラクチブな新たな遊び感覚を作っている気がした。
 けれど幾つかの解説映像を見てくると、解説の妙味はあるが、鑑賞者の身体に関係してくる遊びの映像は初めのものだけなことが解る。それ程意識して鑑賞者に関係してくる遊び感覚を作っているわけではなさそうだ。けれど体験してみると映像が遊具になることが解る貴重なものだ。新たな可能性を感ずる。








5)吹き抜け空間全体を使った服飾インスタレーション。
 建築雑誌の小さな写真を見て、この柳澤孝彦の超短純な吹抜け空間に服飾デザイナーがどう臨んだのかというのが、ここに来るきっかけではあった。
 吹き抜け上部から見ると赤いケープが5条ほど下がっている。黒いケープが太巻きに置かれているのがわかる。赤いマネキンと黒いマネキンが配置されているのはわかるが、上から見ているのではなんだか感じられない。
 下に降りると、自然光が豊富に注ぎこんでいるので、黒いケープも糸目までハッキリと鑑賞できる。床に引きずるケープもほこりが全くなく、よく管理されていると感じた。
 それに比べてこのマネキンのアルミ箔はうなずけない。安物のマネキンのようだ。








6)壁表面の金と銀の箔の裏にジーンズが張り込まれている部屋。
と言うことは身体を包む服が、室内の壁になったということか。初めのプリーツの部屋も壁紙としてのプリーツの下に、プリーツ服飾が張り付けられている、同じやり方だ。これが今回のテーマとしてあるようだ。
 壁面のいくつもの一角では、表面の金属箔がめくれてジーンズが露出している。またある一角では、めくれたところが透明のビニールが窓であるかのように向こう側が見える。覗くとそこにはジーンズがうず高く積まれているのが見える。
 ここにいたって何をやろうとしているのかが不明に感じられる。それはものの作り方の安易さによる失敗にも思われる。ここで使われているビニールはガラスでしっかりと作られるべきだった。イメージへと感覚が向かうのを疎外されてしまう。中央に配されている防寒着のようなものはなんなのか?さっぱりイメージがわいてこないのは何なのだろう。

その他いろいろ。



 結構楽しいものだった。見に行く価値あり。
ところで、写真は撮れない、素材にさわってはならぬ、作品を跨いでは遺憾、最初の展示に戻れない、食堂は大衆的すぎる、空調は寒い、何とかならんでしょうか。


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 写真は(3)が私が隠し撮りしたもの、(6)はパンフから、それ以外は「朝日グラフ」6・16に掲載された「ISSEY MIYAKE MAKING THINGS BY NOBUYOSHI ARAKI」より転載しました写真家:荒木経惟氏のものです。



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