子供達がこの中庭でクルクル遊びまわるイメージで。早く帰っておいでとおかあさんが呼び掛けてきそうです。

 どうして中庭は、こうなっているのだろうか? 

Javaスクリプトによる360°パノラマ



本当に広いですね、360度回転して

広さを満喫してください。

山に囲まれていますね。そして

傾斜なりに建てたことがよく解る。

25mの高低さと360mの長さです。

雑草がいっぱいなんですよ。

小渓谷と木々が残されています。

石のサークルもありますが、

まとまって転がってもいます。











    ここでこの中庭の意義を抽出してみたい。


 列車がカーブを切っている時に窓から見ているような建物と自分、その建物

の囲い込んでいる中庭は、実は建物全体を囲い込んでいる背景の山々に連なっ

ていると言うことでしょうか。実際中庭は自然状態そのものに近いのです。こ

こには設計者の意図があるように思える。

 中心のキャンプファイヤーのペイブは最小限に切りつめられ、直径4m程し

かない。これでは火床そのものにしかならないのだから。あとは下記の自然石

サークルが3重ばかりあって、その外には「雑草」の領域が広がっているのだ。

それは建物の際まで迫っている。今までの設計なら必ずペイブするであろう

キャンプファイヤーを囲む子供達の居場所を、ペイブしなかったことは何を意

味するか?おまけにその外側の広い雑草の領域は?。

 そして中庭を挟んで建物と対をなすかのような対向位置に、小さな渓谷とそ

れに付随する林と言う、自然そのものがこれに接続している。

 この中庭は建築付属の庭なのではなく、囲い込みと見える形は実は道路なり

に沿わせたからこうなっただけであり、そのために「曖昧」な囲い込みになっ

た。建築的なスケールを越えた中庭、それを中庭と見ようとするから整備され

ない放置された雑草=自然が浮き上がって意味を発する。意志して放置された

自然=この雑草とは、計画のなかに無意識をほおりこんだのではないか?とい

う感覚がある。


 神戸の中学生連続殺人事件において、戦後、家庭や学校や地域から、いっさ

いの闇を排除してきたことの結果であり、建築もまたいっさいの闇を排除した

無菌の町並みを作ってきてしまった、と指摘された。それ以前筑波学園都市か

ら、すでに歓楽街のない無菌の都市の居心地の悪さが、指摘されていた。

 「とうぶ」にある放置された自然とは、このことに答える一歩になっている

ような気がしてならない。其れは建築計画と言う=意識だけで構成してしまう

ものに、無意識を入れて行くことができないか?と言うことであり、この場合

過大に囲い込まれた雑草が、そして横断する小渓谷が手つかずのまま残された。

ところがそれら放置された自然が、実は建物の用途と緊密に接続しているはず

なのだが。

                          了



   追伸

ものすごく具体的に言ってしまうと、子供達にできるだけのそのままの自然と

遊んで欲しいと言う設計者からのプレゼントだと思う。これって結構先生方も、

親も、今でも、いやがることなんじゃないかナーと想像するのですが。何故っ

て、この中庭は、整備されていない、無菌でない、衛生的でない所=自然のま

まだから。










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