サボワ邸の持ち上げられたコートハウスは、居間がとても開放的な大きなガラスの引き戸となっており、内庭と一体になっているコートハウスであるのが最大の特徴です。このとても開放的な引き戸の考えは、日本の建具の考え方からきているとしか思えない物です。あまりに開放であるが故に、1階のコートハウスでは安心ができず、ピロティにより2階に持ってきて、やっと安心して実現したと言うことではないかと思うのです。厚い石の壁で内外を遮断していたヨーロッパの住宅にとっては、コートハウスといっても石の壁で守られたものでしかなく、一枚板建具の開口で、一面全面が開放というのは有りえないものでした。であるからこそ、住居のガード意識から言って、ピロティで持ち上げるという、二重なガード(抽象化)が必要だったと言うことです。
(南フランスの温暖な気候とでのコートハウス的な作りがある、と言う指摘があり、トールーズの民家を見てみると、内外の区切りはやはり石積みの壁であり、両開きの扉1600との繰り返しとなっている。日本の建具建築による連続開口とは比べるべくもない、閉じた箱に付属する内庭というものでした。)
ピロティと言っても、屋上庭園と言っても、公共建築におけるそれらと、個人住宅におけるそれらとは全く違った意味を蜷なっていることが感じられたでしょうか。
公共建築のピロテイは1階の公共交通のためというのが大きな目的です。屋上庭園も公共のオープンな場のサービスが目的でのものです。個人の閉じられたスペースでないのですから当たり前ですね。そして屋上庭園だけでなく、室内との組み合わせが作る、内部の外部化と、外部の内部化がおもしろいのでした。ですからここではそれを内庭と呼びました。
ピロティ 屋上庭園 自由な平面 水平連続窓 自由な立面
サヴォア邸でより完成度の高いものとして実現された近代建築5原則の建物として、サボワ邸が紹介されているが、この事に隠れて、サボワ邸自体の魅力が捕らえられないでいるのではないか?と思うのでした。言葉による「けんちく探訪」も終わりはないと思うのでした。
抽象化とは現実を離れて、要素を取りだして理解して行くと言うことです。建築ではそれを幾何学形態として始めたのでした。ですから抽象は幾何学形態だけではありません。近代初期の植物模様もそうですし、魚とか、敷布とか、自由曲面とか。歴史装飾様式がそもそもアノニマス建築(現実)からの抽象でした。
また抽象化というのは、私たちが物事を捕えるときの思考方法でもあります。言語化そのものが抽象化ですし、絵に描くこと、図面化すること等々がこれに当たる。抽象化は脳の欲望そのものと言えるのでしょう。
それは未来のイメージかもしれませんし、若いときには希求され、歳とともに反対に揺れる=抽象性を消して、巷の建築に自己を消して行く、という一コマなのかもしれません。
私たちはことほどさように、抽象化という手法しかないのに、地域性、場所性という絶対の個別性にいかに届くことができるのでしょうか。
2o12o6o3 mirutake
--------追補------------------------------------------------------------------------
「サヴォワ邸」と「軽井沢の山荘」とは抽象的自然を求めるという点で一致している。双方とも1階の大地から離れて、2階にある太陽・風・雨という都市的自然を享受しようとしているからだ。
そして詳細を訪ねて行くとその指向性には違いが表れてくる。
「サヴォワ邸」まず施主の意識=石造の厚い壁に守られた空間意識からは到底生まれ得ない、広大な建具の住まいの開放性は、受け入れることのできないものだったのではないかと想像する。これを乗り越えて提案し、実現できたと言うことなのでした。
その他のコルの住宅では、建具を天井いっぱいに使い内庭を関係させたものは「サヴォワ邸」にしかないのでした。これは不思議なことだ。逆に捕らえるならば、「サヴォワ邸」というコートハウスをピロティで持ち上げるという二重のプライバシーを実現して、初めて日本的な柱梁いっぱいの開口がでたのであって、この二重の守りがないと「できない」と言うことを意味しているようなのだ。
コートハウスを持ち上げたのだから、二重のプライバシーの達成ができた上で、水平連続窓を居間にも、内庭にも穿つことができるのだから、敷地の周辺にある樹木を鑑賞できることになる。
「サヴォワ邸」の内庭からも緑が見える。これは吉村の「軽井沢の山荘」から望む緑に近いかもしれない。
けれど「サヴォワ邸」の緑は遠い。これに対し「軽井沢の山荘」の樹木は本当に近い。窓前にあるのだ。居間にいて林の中にいる感じがもてる。「サヴォワ邸」にはそれはない。宇宙船のように空中に浮き上がることが目標になっているようだ。「軽井沢の山荘」は空中ではあるが、樹木の まっただなか にあるのでした。けれど「軽井沢の山荘」の居間はバルコニーに向かう普通の居間であり、「サヴォワ邸」は内庭を持つコートハウスの居間なのであります。この差は何を意味しているのか。
ここにある差は外部が内部である「内庭」の有無になる。そしてこの有無の意味しているものは、実は「素足」の文化と「土足」の文化の差なのでした。
「軽井沢の山荘」は抽象的自然の素足の快適さを選んでおり、「サヴォワ邸」は抽象的自然の外部が内部である「内庭」を持つ土足の文化の中にあると言うことです。
内庭は土足でないと内外を快適に行き来できません。ヨーロッパは土足ですから近代の抽象的自然観となっても、内庭を持つことができたのです。それに対し素足の文化が許容した近代の抽象的自然は、素足にとって快適な内部床だけでした。内庭を切り捨てて、見る自然だけに限定せざる終えなかったと言うことだと思うのです。
近代以前は素足の文化でも、内部から外部へと連続展開する自然観を持っていました。農業が主体であり、街道や道路が未舗装の時代=床上に上がる時に足を洗うという習慣があっても、土っぽいことは許容されていた、という自然観と言うことです。
近代になって工業の時代、都市の時代、街路が道路が舗装の時代の抽象的自然観は、素足の室内感覚が土離れしてしまって(素足が全く土っぽさが全く無くなった住感覚が当たり前になってしまい)、内部のような外部との連続性を=内庭を切り捨てることになったと思われる。つなぐとしてもガラス越しであり、池ごしであり、ペイブのテラスであった。
ところが近代以降の日本でも、「土足」の住宅は、清家清の「私の家」、安藤忠雄の「住吉の長屋」では、内部のような外部である内庭をもっていると言うこと。それは土足という欧米の生活習慣の輸入なのだから。
では素足の日本の住宅では、もう内部であるような外部=内庭はできないのでしょうか。
そんなことは無いと思います。素足でありながら外部床が実現できれば可能なのですから、可能でしょう。まだ実現していないと思いますが、イメージとしては以前に提出しました、妹島和世の「森の家」に示された全面トップライトの外部のような居間がありました。これを外部にすることでそれが可能になると思うのです。そう外部にしても素足で歩ける床とは、浴室のタイル床です。それは浴室が内庭となっているものです。それは白いタイルばりの浴室が、天井だけ開放されて外部の浴室となっていると言うことです。内庭が浴室であることとは、外部でありながら究極のプライバシーの場となることです。そして居間と一体の解放浴室=内庭なら、ここに私性は極まれり。それは単身者住居の意味なのでしょうか。
了
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建築を一般の人に伝わるものにしたいという意思は、学生の時に受け取った。
当時建築家の言説は難解きわまりないもので、文学者からの批判が、一般的にも話題になっていて、建築批評家(藤井正一郎)が授業の中で取り上げた。これからは建築家も、自作他作に限らず批評できないと遺憾と言うことも言っていたのでした。
建築家が一般の人にも、専門家同士でも解らないような言説をしているのは、知識人として高級な言説にしたいと言うことや、何よりも建築家自身が言葉で一般の人に解ることを言うことはできないという不文律があるのでした。それは自作をこうなっているから優れていると、自分で言うなんてことはできないわけです。それは建築自体で伝えるのではなく、言葉で伝えることになってしまう。自画自賛は顰蹙(ひんしゅく)をかうしかないでしょう。だから言説が難解なのは仕方がないと言う面もあるのでした。作品と一般の人との間を埋める第3者が要請されていると感じていたのです。
建築はそれ自身の歴史と密度を持っており、それは他の芸術でも同じだ。だから一般の人がそのまま何の努力もなしに解ることは大変難しいと言える。方やその歴史が専門の袋小路なのではないかとか、できるだけ一般の人に伝わるテーマで、その方向・価値を課題として行くと言うことがあり、これをテーマとすることの方が、専門家同士の競争より難しい課題であると思うのでした。
そこで初心に返るように、自分の感覚で、初めてその建物を見に行ったと思って、この建物の「見所」を探ってみようと思ったのでした。するとコートハウスをピロティによって持ち上げた住居という姿が浮かび上がったのでした。この事を今までの「サヴォワ邸」について書かれた著作に当たったのですが、何処にも書かれていませんでした。一体これはどうしたことか。皆さん造形論に終始して「サヴォワ邸」を使うと言う感覚視点から取り上げていなかったのです。
「軽井沢の山荘」は吉村順三自身が樹木の中に取り囲まれた快適さとして、使う立場で書かれています。私の視点もここから起こっているのかもしれません。そんな中でどうしても二つの住宅建築の共通性と違いを書いてみたくなったのでした。
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本の紹介
サヴォワ邸/ル・コルビュジエ (ヘヴンリーハウス-20世紀名作住宅をめぐる旅 1)
中村 研一 (著) (著), 五十嵐 太郎 (監修), 後藤 武 (監修) ¥ 2,520 東京書籍 (2008/5/21)
最大の巨匠ル・コルビュジエが到達した20世紀最高の住宅。施主からの細かな条件、オーヴァーしたコスト、度重なる設計案の変更など、建築家と施主とのギリギリのやり取りを現在の視点から読み解いていく。図面・模型写真も充実。家づくりの参考、設計・製図のテキストとしても最適。 (「BOOK」データベースより)
ル・コルビュジエ建築の詩―12の住宅の空間構成
富永 譲 (著) ¥ 2,940 鹿島出版会 (2003/06)
なぜ、コルビュジエの建築に惹かれるのだろうか?「白の時代」以降の主要住宅12をとりあげ、その空間構成法を解き明かす。そこには建築的散策路が織りなす空間の詩法が読み取れる。ル・コルビュジエ研究の決定版。 (「BOOK」データベースより)
ル・コルビュジエ―幾何学と人間の尺度 (建築巡礼)
富永 譲 (著) 丸善 (1989/07) 中古品の出品:17¥ 73より
20世紀の巨匠ル・コルビュジエの生涯を辿り、代表的な作品を訪ねる巡礼記。西欧の理性的な精神を受け継ぎ、工業社会の新たなパルテノンを樹立した初期の作品サヴォア邸、後年になって近代建築への反省をも含め、自然の秩序に基づく人間の尺度によるロンシャン礼拝堂などの創造の過程を探る。 (「BOOK」データベースより)
ル・コルビュジエを見る―20世紀最高の建築家、創造の軌跡 (中公新書)
越後島 研一 (著)¥ 798 (2007/08)
ル・コルビュジエのお洒落で格好いいイメージは、建築専門誌以外でも特集記事が組まれることが多く、広く知られている。いったい、彼の建築のどこが人々を魅了するのか。本書は、彼が遺した膨大な作品群の中から初期のサヴォワ邸と後期のロンシャン教会堂という「世紀の名作」を軸として、この二つの建築物の新しさ・美しさはどこにあるのかを解き明かしつつ、一人の建築家の足跡と、日本の建築家に与えた影響を探る。 (「BOOK」データベースより)
建築形態の世界―ル・コルビュジエへ (建築巡礼)
越後島 研一 (著) 中古品の出品:3¥ 1,400より 丸善 (1996/03)
仰ぎ見る「光の筒」をガイドにル・コルビュジエの作品を考える。本書は、今日における創作の具体的契機を捉えるために人類が生み出した最も偉大な建築家ル・コルビュジエの作品を軸に建築形態論の旅へと誘う。 (「BOOK」データベースより)
ル・コルビュジエ/創作を支えた九つの原型
越後島 研一 (著) ¥ 2,100 彰国社 (2002/03)
コルビュジエの作風は、一九二〇年代と一九五〇年代とでは全く違う。ひとりの建築家のものとは思えぬほどに、変化に富んだ作品軌跡を描いている。本書では、コルビュジエ作品の「持続する特徴」を具体的に追った。 (「BOOK」データベースより)
ル・コルビュジエとはだれか
磯崎 新 (著) 王国社 (2000/02) ¥ 1,943
著者のル・コルビュジエに関する論文やエッセイを一冊にまとめ,さまざまな視点から彼の実像を再考する
日本を代表する建築家として多くの著書を発表してきた氏の,ル・コルビュジエに関する論文やエッセイを一冊にまとめた。収録されている文章のなかには,30年以上昔に出版されたものもあるが,著者は本書で「ル・コルビュジエの建築についての私の視点は,すべてここに現れていて,まったく変更されていないことに,われながら戸惑っている」と述べる。実際に建物を訪れた体験とル・コルビュジエ本人の著書だけを参照して書いたというこれらの文章では,一貫して建築空間の持つ神秘的な雰囲気とエロスが強調されている。
ル・コルビュジエと日本
高階 秀爾 (編集), 三宅 理一 (編集), 鈴木 博之 (編集), 太田 泰人 (編集) ¥ 2,940 鹿島出版会 (1999/03)
本書は、1997年2月9日、11日、東京田町の建築会館ホールで開催された国際シンポジウム「世界の中のル・コルビュジエ―ル・コルビュジエと日本」の全発表を収録した報告書である。テーマとなっているのは、今世紀最大の建築家のひとりル・コルビュジエと日本の建築家、デザイナーたちの直接、間接の交流の歴史である。 (「BOOK」データベースより)
ユリイカ1988年12月臨時増刊号 総特集=ル・コルビュジエ
多木 浩二 (編集), 八束 はじめ (編集) ¥ 1,575 青土社 (1988/12)
マニエリスムと近代建築―コーリン・ロウ建築論選集
コーリン・ロウ (著), 伊東 豊雄 (翻訳), 松永 安光 (翻訳) ¥ 4,893 彰国社 (1981/10)